主体と客体のバランス


【自我自賛の日本】

日本人は属性本意で、欧米は個人主義。

これは定説でありますがそれこそ二者択一でなく、問題を引き起こした次元で問題を解決しようとしても、そこに抑圧された欲求が蓄積され、より大きな問題を引き起こす起動力となるだけです。

今回、何を言いたいかは過去ログで紹介したように、日本的経営にしても武士道精神にしても、マネージメントやアドラーブームにしても、単に日本人受けする自画自賛の思想にすぎず、これらは一瞬、

「あぁ、自分の考えは間違ってはいなかった!」

と安堵の状態に陥りますが、そもそも自分の信念に疑いがある時点で、自分の信念を信じていないわけで、疑っている自分の信念を更に騙しているにすぎず、つまりはブレのある疑っている信念を信じようとしているだけなのです。

これは

「日本は素晴らしい!」

という自我自賛と酷似しており、自衛のための戦争から一億玉砕とスローガンが代わり、本土決戦前の前哨戦として沖縄をステージにして、原爆2発落とされ降伏し、沖縄を捨石にしたことに反省もし、次は沖縄バッシングしている内地の人間って、すばらしいのかと問いたくなります。

何度も私が言及している通りに、震災や原発事故のあった東北に対しての酷い扱いもそうですし、東京オリンピックなんかで中央政府は浮かれている場合じゃないし、グローバリズムで東北や地方を切り捨てて、どこが素晴らしい国なのかよく理解できないわけです。

オーギュスト・コントのごとく橋の上から川に飛び込んだ老酔狂ではありませんが、日本人に必要なのは客体重視のスタイルでなくむしろ、

自分の頭で考えろ

であり、むしろ不足しているのは、欧米スタイルの社会心理学者北山忍氏のいう「相互独立的自我観」なのです。

これ以上、客体重視で自我自賛してどうするのか。


【客体重視からなる客体重視による更なる問題】

で、私の友人で科学至上主義、客体重視の人が好きな自己啓発本の一つで、D・カーネギーの『道は開ける』なのですが、これはアドラー心理学と同様であり、相互強調的自我観つまりは属性本意の日本人にとっては、オススメできません。

属性本意で長いものに巻かれて、たまりにたまった緊張(ストレス)を、より貯める結果となり、本人にももちろん社会にも好影響を及ぼすとは思えません。

2年以上前に買ってほったらかしなのを一部読んでいるのですが、よくないですね。

 

これで、更にたまった緊張を解消しようとして、客体に対して攻撃・例えばうつ病の人に対して、

うつ病は甘え

というムチャクチャな自分の都合によい、公式をつくってしまうわけです。

こういう人にはむしろ、抑圧された緊張を継承すべく、癒しが必要なのです。
リニア農業治療とかして。


【間違いだらけの処方箋】

うつ状態の人に対して、

「他人を喜ばす方法を考えろ!」

って根本が間違っているわけで、単に問題をスリ代えているだけで、恐らくこれをするとますます、抑圧された感情や欲求が蓄積されて、その度に客体に対して奉仕という名のコビが助長されるだけとなるでしょう。

これでもうつ病が改善されないのなら、自虐的になり周囲からも甘やかされていると責められ、負のスパイラルに陥るのです。
アドラーブームの後、まったく日本の閉鎖的な社会が変化してないのが、それを証明しているのではなかろうか。

そもそも、

主体重視 = 協調的 or
客体重視 = 協調的

という2択が謝りであり、その抑圧された緊張に対する攻撃対称が、主体か客体かの違いになり、ますます社会は混乱に満ちるわけです。
低賃金労働者が生活保護受給者を叩くような、負のサイクルもこれらによるものでしょう。

 

(『格差社会と国家の衰亡』より)


【他者と分離して初めて可能となる攻撃】

うつの人のまじめな人が多いのは、問題を全て自分でかかえて解決しようとし、思考回路がショートしてしまい自分を責める、つまりは主体に対して攻撃を与えるわけです。

これも根本は罪悪感なのですが、社会ダーウィン主義者や優生学信仰者、グローバリスト・ウヨク思想の多くは、主体でなく客体に攻撃を与えるわけで、だから、生活保護受給者や障害者、在日、近隣諸国、地方、母子家庭、貧困者、気の弱い同僚と攻撃を与えやすい客体に攻撃を加えるのです。(宗主国や権力者に対して攻撃しませんでしょ?)

同じ人間、同じ日本人というカテゴリーでは同じなのに、同胞を叩くというカラクリは、罪悪感から主体と客体に分離し、同胞という統一された関係を解消し、初めて攻撃を加えることが可能となるわけです。

過去ログの3年B組の腐ったミカンと同じです。

主体と客体と分離させることにより、同胞パラドックスが解消され、攻撃することが可能となるのです。

まぁ、これは、鏡に映った自分に対して攻撃するようなものですけど。


【多面性を管理することは不可能】

近代化の特徴として分化なのですが、各自がいちいち自分がどういう立場でどういう思想から言動しているなんて、チェックすることなど不可能に等しく、だから皆、混乱状態に陥るわけです。

(『格差社会と国家の存亡』より)

もともと社会というものの定義は役割分担によるところが大きいのですが、有機体として肉として一体である主体に対して、多面的な側面を背負わすこと自体が混乱する原因となり、使い分けられるわけがないのです。

愛国者と言いながら国民の側面が欠けた結果として、沖縄や東北・地方、生活保護受給者や母子家庭などの切捨てであり、その場合は万世一系とか白人国家に勝利したとか大東亜戦争によりアジアを植民地から解放したとか、もう観念圏に完全に精神は支配されているのです。(まぁ、このモルフォジェネティク・フィールドにゾッコン常時接続アクセス状態なのでしょう)

 


P・S

今だに精神上近代化を遂げていない日本が、今さら契約の概念なり分化という概念を植えつけている時間などなく、まぁここでは本来統一された自己を形成するのも一つの手ではないでしょうか。

だから、アイデンティティ・自己統一性なのです。

統一性(時間でなく共有)をもって自分が自分であるというものです。

しかし、これらの手法も、権力者らのダークサイドに悪用されて、スターリンや大手ブラック会社の経営者みたいに、ジョージ・オーウェルの『動物農場』の屠殺場につれていかれて馬肉となる忠誠心の厚いボクサーみたいに、改造されるだけです。

「わしがもっと働く!」みたいに葛藤することを避け、ストックホルム症候群に陥るがごとく、洗脳されるのです。

 

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