『グリザイア』シリーズから学ぶ「一人が五人を救うまで」の精神


【グリザイア・シリーズ】

1週間以上ブログ更新なしだったり、毎日したりとか適当なのですが、実はリズムに乗ってるときに一気にしあげたものを下書きにして保存し、毎日分割して投稿したりしてます。だから、このブログも数日前にできあがってるやつなのです。

こういうのはリズムに乗った時に一期にやるのが生産性が高く、マズローの欲求の自己実現の欲求にのっとれば、一番生産性が高くこれを利用するのが真に意味でのゆたかな社会なのです。

経済学者のカールメンガーのような飢えを動機とする、経済学特有の欠乏を動機とする陰気な思想と対峙する思想にのっとる思想と異なり、社会学的な意味での量的規定やダンパー数とか成員間での牽制・社会的紐帯とも異なる、第三勢力つまりは次世代の思想にのっとっているわけです。

さて、TVアニメで『グリザイアの果実』『グリザイアの迷宮』『グリザイアの楽園』と、元ネタはエッチな内容の美少女ゲームらしいのですが、この内容が実にヘビーです。(注意 一部ネタばれあるので)

グリザイア・コンプリートボックス
フロントウイング (2017-01-27)

【冴羽 獠みたいな主人公】

話の内容は、主人公の風見雄二が、心に傷をおった少女の命を5人助けるというストーリーで、それが一期『グリザイアの果実』の内容であり、風見はいわば『シティーハンター』の冴羽 獠みたいにスーパーマンであり、やはりこんな超人めいた人物は冴羽 獠みたいな、ゲリラの兵として訓練された人間の兵器にされたよな壮絶な過去をもってたりしています。

この風見は少年期に身元を拘束されるが、そこがヒースクリフという男の傭兵部隊の集団であり、世界中の身寄りのない不幸な境遇の少年少女を集め、訓練させて人間兵器にして商売し、世界を混乱にするというものです。しかし、風見は運よくその組織から逃れられ、アサコという別の傭兵が母親代わりとなり育てられるけど、また傭兵として訓練させられるわけです。


【5人救うまでは勝手に死んではいけない】

このグリザイアに出てくる5人の少女がみんな訳ありで、TVドラマ『anone』に出てくるキャラたちと結構似ています。

風見雄二は冴羽獠と同じく、多くの戦闘により人を殺しており、トラウマもかかえているわけですが、母親代わりとして育てられたアサコにあることを命じられます。

「昔は一人十殺と言って、それまでは勝手に死ぬことは許されなかった。今は時代が違うから、一人で十人の命を救うまでは勝手に死ぬことは許されない。お前は半人前だから五人の命を救うまでは、勝手に死ぬことは許されない。」

大体、このような内容だったと思います。
それで、『anone』のような訳ありの少女5人の命を救うこととなり、風見は使命を果たそうとするわけです。


【贖罪の意味】

私が思い浮かんだことがあり、それは贖罪(しょくざい)と言う概念であり、この贖罪は別に賠償とか罰を受けるとか、償いの意味とまったく違うわけです。

こうなると宗教的な意味になるのですが、因果応報というものをシッダールタ(俗称は釈迦)がどう意図したのかどうかが疑問であり、これはカルマという概念も同様であり、因果そのものの概念が問題を作りだしているのではないかということになります。

責任と同じく元々存在していない形而上の概念をつくり上げ、一部の権力者の都合のいいように置き換えられたものと同様で、贖罪も本来は別の意味があるのではないかというものです。(過去ログ

許すと赦すとまったく意味が違うのと同様であり、許すってその権利をもっている側とそうでない側のいわば、権利と義務を負わせられるような分離された二つの存在が必要であり、赦すといものはその分離された概念ではないのだと解釈できます。

(なぜ英語化が愚民化であるかの理由の一つは、こういう抽象概念による思考は母国語でしかできないわけでだから、英語化教育は愚策であり、ジョージ・オーウェルの『1984年』みたいに国民の頭がカラッポになります)


【第三者は加害者であり被害者である】

私は元刑務所帰りの人とかと触れる機会があり、訳ありの人生を送ったりしている場合もあり、彼らが犯行にいたった責任は実は社会そのものにあり、言ってみれば全員に分配されているという社会学的・社会心理学的な意味合いのほうが妥当性が高いと思うわけです。

よく、宮崎事件とか池田事件とかその他のイジメにより子供の自殺とか、勝手に被害者側の立場に立って怒りを露にする人がいますが、あくまでも関係のない観測者は第三者であり、加害者側の家族や友人・関係者であることもあり、それを自認していないのです。

裁判の結果も出ていないのに、勝手に被害者側の立場になり容疑者や被告人を糾弾しているので、もはや江戸時代レベルであり、近代化を遂げた法の精神なんてないだろってこともあります。

昔TVでフェミニストの田嶋洋子さんが「犯罪者にもそれなりに歩んだ境遇があるから」と発言してことがありますが、それの発言に対してやはり他の出演者は感情むきだしで叩き、罰則を強化するとかその発言がわりと支持されるようです。

もともと、第三者である私たちが、貧困とか社内や近所付き合いとかのイジメとかさんざん放置して、TV番組では変えられない人の欠点や貧乏な境遇を笑いのネタにしたり、芸能人のプライベートをむき出しの好奇心でとりあげたり、その投影が子供のイジメから来る自殺だろうし、スクール・カーストという現象なのではないでしょう。

いわば、第三者としての私たちは、常に加害者と被害者両方を同時につくりだした責任を皆おっており、これはスタンレー・ミルグラムのアイヒマン実験と共通してるのです。

責任が分割されて無関心になりホロコーストを放置・支持するっというようなやつです。(投票に行かない行為もTPP参加容認や、貧困者叩きもそうです)


【問題をどんどん広げる思考】

機会の均等とか格差是正とかまぁこれは当たり前のことなのですが、他にも犯罪者を生んだ責任が(形而上の概念を肯定するとして)第三者側にもあるので、刑務所を罰を与えて恨みを晴らす施設でなく、それよりも更生としての意味合いに変えたほうが建設的だと思うわけです。(再犯の多い薬物中毒者もそうです)

過去ログで紹介したと思いますが、刑務所帰りをしても住む家も仕事もなく、しかも日本みたいに履歴書に全学歴と全職歴の記入が必要となると就職が困難となり、犯罪をまたくりかえすことになり、それでパチンコ屋の息子を誘拐して身代金要求とかしてまた刑務所に入ってわけです。

問題をつくりだしたやり方で罰則強化しても、今度社会に対する破壊衝動となり、いずれ爆破テロとかもっとエグイことになりなねないでしょう。


【責任は分配されて希釈して無関心になる】

で、ヒントとなるのはグリザイアの「5人の命を助ける」という逆発想であり、風間雄二のように、たとえ多くの命を殺めても、5人の命を助ける更生を促すほうが、建設的ではないかというものです。(マキノの母親射殺しているけど)

ここで、「被害者の心情がわかっているのか!」と憤怒で顔を歪ます人がいますが、まず私たちは第三者であり、被害者の側面と加害者の側面の側面を両方もつことでもあり、それは過去ログの3年B組の加藤まさるの例のごとく矛盾となり、矛盾解消するには、第三者としてその責任を少しづつ配分することになるのです。

小保方さん騒ぎで人一人死んでますが、面白おかしく騒いだ連中って、選挙で投票行かなかった連中やナチスのホロコーストを黙認したり支持した連中と同じく、しかしその責任は分散されているからないに等しいのです。
仮に責任を償えても一人あたり懲役1分、1円の賠償金と、首1度だけ下げるような謝罪になります。


【負の連鎖の断ち切りルート】

宮崎哲矢さんが行き着いたところが仏教と言ってましたが、皆行き着くろが似ており、こうなるのです。

爆笑問題の大田さんがTVで「戦争で大切な人が殺されて憎いけど、ここでやり返したらダメ」と発言し、これまた叩かれましたけど実際そうなんです。

戦前の陸軍のエリートのクーデターは、東北の賊軍の子孫のルサンチマンが起動力であり、しかし幕末の薩長は関が原のリベンジ組でもあり、ずっとこれの負の連鎖があらゆる方面で繰り返されているのです。

カルマなぞ存在しないという解釈がニューエイジにはあり、カルマは自我が罪悪感から勝手に感じており、カルマはエネルギーのバランスであり、殺人を犯した人が人を救うことでバランスがとれるという考えかたもあります。

ここでグリザイアの人を殺めた終身刑の受刑者などに、5人の命を救うことを促す更生施設として、刑務所の機能をつくりかえたほうがいいのではなかろうか。第三者にしかできないことです。

受刑者もマイクロチップを植め込まれてGPSで管理されてでも、外に出たいだろうし、それなら地域住民の恐怖も緩和されるであろうし。


P・S

母親代わりとなるアサコの薦めにより、風見雄二は米国の傭兵部隊に入るのですが、風見は昔の殺人兵器時代のトラウマから実戦で人を銃でも撃てなくなり、そこで上官が風見の卓越したスナイパーの能力を引上げるために言った台詞が魅力的です。(風間はゴルゴ30のように、2km先の標的でも狙える特殊能力があるのです。)

「いいかい、風間、今、君の前で仲間たちが敵と戦っている。同じ言葉を話し、同じものを食べ苦楽をともにしてきた大切な仲間たちだ。」

この上官は医者であり、メンタルケアーが得意なのですが、トクヴィルが言ったことと同様であり、同じ人間と思えるのは、これらの条件を満たしているからです。

同じ日本人と言いながら、同じ日本人を排除し、同じ日本人を階層分化し、格差を拡大する政策を支持し、3月11日では東北の震災に同情し過去の映像をみて涙を流し、一日だけ同胞意識を感じ、次の日には東北に苛酷な条件を叩きつける政策や条約を支持し、これが日本の現状です。

だけどこれも、多数派だから責任分散されてリスクなどなく、戦前戦中に「非国民」と言っていた状態から、敗戦後すぐに「平和」を連呼してる現象とまったく同じです。まじめに三島由紀夫みたいに美学を貫くとか、そんな行為は多数派には狂人扱いされて終りです。

批判あびるかもしれないけど、多数派にいることが完全に安全なんですよねぇ。
権力者は安全を武器にして人を操るけど・・・。

 

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