ルサンチマンと帰属主義


マルクスは人間の意識がその存在を規定するのでなく、社会的存在が意識を規定すると唱えていました。人間存在を生産活動を営む動物と定義しております。

社会学に代表される社会科学は自然科学同様に唯物的であり、帰属意識というものも人の本質的なものを軽視する傾向にあります。その帰属意識とはいかなるものかを詳細するとブログでは長文になるので割愛しますが、帰属意識はその成員が所属している集団が外向的むける意識だというものだと思います。要するに、自己を環境において重要視するか内面において重要視するかだと思えば差し支えないでしょう。

人がその集団において帰属意識をもつと当然その集団に対して愛着をもつわけです。その人は神と契約した個人でもなければ近代思想におけるような原子化された個人でなく、その集団での役割分担などにおいてアイデンティティを確立するわけです。しかしながら構成員にとって所属している集団はまさに共同体であり、そこには平等の思想が強くなるわけです。

共同体に代表されるのが家族ですが、まさにゲマインシャフトを表象したものであり、よく「お兄ちゃんばかりずるい!」とか「お母さんは○○に甘すぎる!」とか兄弟姉妹の多い家庭ならではのあるあるの会話はこの平等の思想からきてるのです。

こう記述すると、「父親と母親と子供が平等のわけがない!」とつっこみが入るでしょうが、それは役割分担の相違から生じるものであり、少なくとも兄弟姉妹間では平等である考えが基底とされているのです。

愛国者というものはその国に対する帰属意識が強いといって過言ではないでしょうが、そこには仮に日本という国家の構成員としては平等の思想が明らかに当然強くなるわけです。経済社会学の分野では男性は公正女性は平等を重要視されるのも家に対する共同体に対する意識が強いからだと思われます。嫉妬という字が女偏であるのはあながち間違いではないのですw構成員間の配分を考えれば平等が一番理にかなっているのです。

さて、本題に入ります。

嫉妬は同じレベル認識している対象において抱くとされております。この命題を前提とすると木村拓也に嫉妬を抱かないごとく、同じレベルつまりは同じ構成員という認識がなければ抱かないわけとなるのです。

例えば、北朝鮮や中国共産党の高官、南アフリカの富裕層、アラブの石油王(ベタなネタ)に通常、私たち日本人は嫉妬など抱かないわけです。なぜなら、その国に帰属意識があるわけでもなく同じ構成員ではないからです。彼らに対してルサンチマンなど抱くわけがありません。

こういう意味では日本国内で公務員叩きなど身分保障がされている職業を叩く心境、ルサンチマンは敵とみなしているのでなく不公平感からくる帰属意識の表れ以外に他ならないのです。そもそも敵というものに対して帰属意識など存在しません。もし公務員を敵とみなすなら革命を起こしてでも敵を排除するでしょう。攻撃して危害を加える敵なのですから。だから、不満を口にするだけで行動に移らないわけです。

国家や地方自治体に対して帰属意識が希薄であるなら、ルサンチマンはかなり軽減されます。そもそも国家を共同体と見なすこと自体誤謬であり、テンニースが言ってるが如くゲゼルシャフトそのものです。

ホッブスが国家をリヴァイアサンという怪物に表象し、ロックが自己保存のための共通利益集団、コモンウェルス以外の何物でもないのです。

共通利益・利害が一致しなくなると共同体内で分裂が生じ、対立構造が生じ、革命・暴動が起こるわけです。

なぜ、日本で暴動が起こらないのか?

ルサンチマンがはびこっているからです。

今だに国家に対しての帰属意識が強烈であるからです。

帰属意識が希薄になり日本にいると惨めな一生で終わると確信した女性を中心とした若者は早くに外国に脱出するし、逆に日本での役割分担で益を確保できると確信した人はその既得権にしがみつく。そして、所謂、負け組確定となった若者は残りの消化人生に絶望し自殺をしたり、はたまたルサンチマンを抱き続けるわけです。

 

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